窓
2021.4.9 / blog
最近仕事がまったく暇なのでブログやインスタでも少し文章書くようになった。
今世の中も大きく変わってるけど、自分も一生に何度かしかない大きな転換期にいるのかもしれない。
大きな方向性というか流れとして間違いなく良い方にいってるなぁという実感はあるが、たぶん時間もかかる。
日々不安がよぎる時はあるけど、とても意義のある時間だ、この時期を大事に、そして見失わないように楽しく過ごしたい。
今日は窓について考えてみた。
今朝、妻と喫茶店でモーニングをしている時にふと見た窓の外の景色がなんだかきれいだった。
その窓ははめごろしのFIX窓だったんだけど、窓にも色々あって引違い窓や倒して開く窓や
ハンドルを回して開ける窓、人が出入りできる掃き出しの窓など様々である。
その中でFIX窓は他の窓と違い、開くことができないので他の窓と少し存在が違う。
開けて風を取り込むことや人が出入りできないので機能性という部分だけで見ると他の窓より劣る。
しかしその機能を手放しているが故に外の景色を綺麗に切り取り、光も美しく導く。
外部を抽象化してくれるというか、一部の感覚を抑えることで他の感覚を研ぎ澄まさせる効果が
あるようだ。
(新幹線がなぜ考え事するのに適しているかは同じ効果かもしれない、+スピードが身体的を超えて速いことで外の景色より
抽象化されている、そして決まった時間拘束されているということも大きい。自動車は運転していると運転に多少集中しなくてなならないのでちょっと違う)
でもなぜ外部が抽象化されるといいのか?
抽象化されることにより、より自分の存在を認識できるからか
外部(社会)の中にずっといると同化してしまう。時々一定の距離をとることで自分を感じ
そこからまた宇宙の様な広がりを感じることができることは大事かもしれない。
こと、自分や家族など共同体を形成し認識する住宅においては社会と一定の距離がありながら繋がっているような場所でとても大事になってくる。
まず窓と言う存在を定義する時に「外部との接点」と捉えるといいのかもしれない。
その上でこの窓はどういう存在であった方がいいかと考える。
目的ではなく手段である。
ただその窓だけで語ろうとせずに、あくまで空間とセットで考えるし
部分ではなく全体を見ながらその部分を考え往復する。
そして壁をたててから窓を開けるという序列をつくるのではなく同時に考える。
壁・窓・天井などを同列に扱う。
その他すべてにおいても言えることで、ディテールも同じかもしれない。
ディテールだけで語れないというのは、ディテールだけ切り取って価値がある、なしでなく
何の為のディテールかを考えてみる。
それら小さい視点もそうだし、大きな視点の「建築自体」も何の為の建築なのかを考える。
それだけで語れない。
建築は手段でしかないことを認めなくてなならないということだね。
窓で思い出したがyoutubeで以前見た山極 壽一の京大総長就任インタビュー(大学の存在意義とはみたいな内容)
がとても面白かった。
大学とは学生にとって「窓」であると。
大学とは世間から自立して、常識に囚われる必要はない場所である。
そこで何を教えても良いし、何を議論しても良い。
ある意味守られている。しかしその窓をあけ社会につながることもできると。
それは学生自身で開けたり、教員が導いたり。
そんな世間から少し離れたところにある存在だと言っていた。
今の社会、世間、現実で起きていることに変に左右される必要はない。
その発想が次の時代をつくる。
いいこと言うなぁ
確かに大学という存在はそうであってほしい
自分の大学時代を思い返しても
、勿論頭のいい大学ではなかったが笑
面白い人もセンスな人も色々いて、学生も教員もフラットだった。
そして場所こそ山奥で孤島だったけど
腰窓から世間に飛びだすこともできたし、FIX越しに見渡すこともできた。
導いてくれる人もいた。
帰ってくる居場所もあった。
今考えるととても貴重な時期。