最近興味あること書いてみた

2021.3.15 / blog

昨日椅子をつくるワークショップがあり、今週末も家具をつくる
ワークショップがある。最近興味がある本にもだいたい同じようなことが書かれている。
文章にして整理してみた↓

 

思考するDIY|

 

最近DIYに興味がある。
職業柄なじみがあり、当然のことなんだけど
昔はなぜか少し距離を置いていた。
それはDIYという響きがどこか素人っぽいし、休日のお父さんの趣味的に思えたからだ。
自分は一応プロなんだからそういう人達と一緒にされては困るし、それぞれの分野のスペシャリスト達と
一点物の建築をつくっているんだからわざわざ自分でDIYをする意味が分からないといったところである。

 

つまり自分の自信の無さを露呈していた、一生懸命自分のポジションを守ろうとしていたんだと思う。
今では多少は自信がつき、そういう考えを手放すことができたようだ。
そして単に作業としてのDIY、例えば「予算が無いから自分でつくる」や「人に頼むまでもないからDIY」という
考えから一歩踏み出し、思考のツールとしてのDIYという考えが大事なのではないかと思ってきた、自分で手を動かしつくるとはどういうことだろうか。
なぜそれが今の社会で大事なのか整理して実践していきたいと思う。

 

考えを整理していく中で自分の幼少期の体験と繋がっていると気が付いた。
まぁだいたいのことは子供の方が正しくわかっている、つまり子供心、シンプルにワクワクすることや、
理由もなく興味があることに本質がある。

 

少し前にふと調べて知ったんだが、僕の実家の近所は都市計画の用途地域の区分では準工業地域になるらしい
住宅以外にも小規模な工場や作業場が多く小学生の頃は登下校の途中にある
その工場の前を通っては興味深く覗いた記憶がある。

 

その中でも毎回立ち寄るお気に入りのスポットは
壊れた農機具や機械が山の様に積んである空き地の集積所だった。
一見ただのゴミ山だがその場所は自分にとっては宝の山で毎日そこに通っては珍しいネジや金属の破片を拾って集めていた。
その時点では何に使うか定まっているわけでないただの欠片(パーツ)達である。何処かに魅力を感じ
「何かに使えるかも」ととっておいたパーツはほとんど日の目をみることなく放置されるのだが、たまにつくるわけのわかららない造形物や道具で
そのパーツが威力を発揮することもあった、自分の中でしっくりきたそんな時はとても嬉しくて、なんとも言えない喜びがある。
 

この心の奥に忘れられていた感覚が実は非常に大事であると感じている。
 

自分が大人になって最近感じることは、ただの消費者になっているのではないかということである。
それぞれが高度に専門分野化することにより、自分の専門分野以外は手出ししてはいけないような風潮があると錯覚する
そうなると当然考える(発想)力が衰え、与えられるものをただ使うということしかできなくなる。
与えられることが前提でそれに慣れてしまった私達は不平不満がどうしても多くなる。
今の世の中はそういうことをなるべく考えなくても済むようにあらあゆるサービスやレールが張り巡らされていて消費者に思考する隙を与えない、
それはそういう社会の方が消費を促せれるしコントロールしやすいからである。
(つまりはなんでも自分でつくっちゃう田舎の農家のおっちゃんが最強ということです)
 

じつは建築の分野でもまったく同じで、住宅が「商品」となっているといわれているのは
まったくこのことである。
住宅は高額で一生に一回の買い物となることが多いので、そこにはあらゆるサービスやオプションが紐づけられている。
 

メンテナンスフリーが理想とされ、自分で修理したり、手を加えることができず
汚くなったり壊れたら新しい物を買う。
(そんな中でも畳という存在は永遠を理想としていない素晴らしいものだ、またの機会に書いてみようと思う)
流行に過敏に対応した商品は物としての物理的な寿命を迎える前に
古臭いという社会的な寿命をすぐに迎える。

 

さてDIYをすることで、身の廻りの物はなんでもつくれるのではないかという思考回路を身に着けると
あらゆる物の見方が変わってくる。
すべては素材に見え、与えられることが前提ではなく、自分でつくっていけるのではないかと思うことができる。
色んなことに関心をもてるようになると近所の山に植林された杉や厄介者の竹だって魅力的な素材に見えてくる。
今まではただの風景だったものが急に身近な素材に見えることでそこに対する意識も変わってくるはずだ、
自然とそういうことに配慮できる地球に優しい結果となってくるのではないか。

 

[自分の身の回りは魅力的な素材で溢れている]

 

幼稚園児である僕の子供達もどこかに行ってはガラクタを毎度拾ってきてしまう。
その度に、「またいらないものを拾ってきて」と言ってしまう自分を反省し
彼らにもう一度学ばなければならない。

 

小学校の登下校時に通った、機械のゴミ山の場所は今はもう綺麗な駐車場の
更地になってしまっている。
それでも宝の山はまだ近所の何処かにあるはずだ。
 

よく言われることだけど意識が変われば世界が変わる。
 

環境問題・持続的な社会って何をどうしたら良いかわからないって思うけど
まずはノコギリで木を切ることから始めてみようと思う。

 

あと建築もまさにそうである。
僕がつくりたい建築は既に完成度が高くて高機能なものを取り寄せ、それらを組み合わせて
つくる建築ではなく、単体で見るとまだ価値のない欠片(パーツ)だけど、
それらを合わせることではじめて価値がでるものを
つくっていきたい。その行為を初めて設計と呼ぶのかもしれない。